AIで普通の動画を3D動画に変換する

旅立ちは夜明け前に。

日の光を嫌う魔物のように、彼は未明の闇の中 身支度を終えた。
部屋の中はシンと静まりかえっている。
それは深夜というだけでなく、彼と私が一言も口を利かないからでもあった。



話すことなど何も無い。



彼は無駄話が大嫌いで、一言「日本を出る」と言ったきり。
あたしは 言いたいことがないでもなかったけれど、その一言で大概を察するくらいには頭が有能だったので
そうかぁ、と納得してから 言うことは出来ないなぁ、と悟った。

話したって意味が無い。



だから、せめて納得したポーズだけでも見せようと
大人しく彼の部屋のソファに膝を抱えたまま、彼が準備を終えるのを見守っていた。
彼のその細い尖った指が、トランクの留め金を パチン と下ろし切るまで。
ただ じっと 見ていた。


荷支度が終えたなら 出掛けにコーヒーを淹れてあげようかと思ったけど、
食器や食べ物の類はすべて前日に捨てたのを思い出した。

そうだった この部屋には何も無い。


やっぱり何もすることがないわ、と思ってそのままソファに座り続けていたら、彼が何かを投げてよこした。
彼の手のひらに納まっていたそれは チャリ、 と硬い音を立てて 今度はあたしの手の中に納まる。

彼の部屋の鍵だった。






「後はやっておけ」







それだけ言って、彼は肩にトランクを担いだ。
返事もせずにぼんやりと彼を見つめると、視線が絡む。
彼は目の前のテーブルの上で作業をしていたから、あたしと彼の距離は歩いて5歩もないところにあった。
キスでもしてくれるかしら と思っていたのに、最後まで彼は彼らしく
あたしに触れもせずに 「じゃあな」と言って出て行ってしまった。



あんまり素っ気無いもんだから、夜が明けて夕方になればいつも通り帰ってくるんじゃないのかと思った。






だけどそのままじっとして、夜が明けて

部屋にじんわりと光が差し込んでくるのを感じる頃には
嗚呼 ここはもう彼がいない場所なんだ と 

しっていた。


そして ここはあたしの家ではないので、
彼が帰ってこないのにいつまでも居たって仕方が無いから あたしもそろそろ出ようと思う。
別に特に荷物なんか持ってきてはいなかったから、そのままふらりと立ち上がる。
手の中で チャリ、と鍵が鳴った。
最後の頼まれごとを思い出す。
「後はやっておけ」
つまり、出て行くときにこのマンションの管理人に鍵を返しておけ ということ。

最後まで人に命令するなんて、どこまで無遠慮な男だろう、と思ったけど、
旅立つ餞として最後の面倒は見てあげようと思い直した。








































































「は?」







言ってる意味がわかんなくて、あたしは管理人さんに聞き返した。
管理人さんは刺青びっしりでスキンヘッドの白人なのに日本語が流暢な人だったけど それでもあたしは聞き返した。


「だからこの部屋は先50年分、もう家賃はもらっている」



もらっている、と言いながら彼の目が暗く潤んでいる気がするけれど、重要なのはそこじゃない。



「あの・・・その部屋の人はもうここに住まないんですけど・・・」
多分日本にすら戻らないんじゃないかと思うのですが。

「知っている。今日彼は出掛けていったんだろう?だけど家賃はもらっている」

やっぱり管理人さんの目は潤んでいたけれど、嘘を吐いている色はしていなかった。

「えーと、でも鍵を返すように言われたので」



そう言って、彼の前に鍵を差し出す。


「鍵は、彼が留守の間は別の場所で保管すると聞いている。俺は預かれない」

言いながら、彼はもう話したくないとばかりに管理人室の扉を閉めようとする。

「え、あのちょっと」
「後はあんたがどうにかしろ」

余程あの悪魔の話を終えてしまいたいらしく、最後は目も合わさずに言い捨てて、バタンと扉を閉めてしまった。













なにそれ。







「後はやっておけ」



それしか彼は言わなかった。

それは多分、彼が無駄話を死ぬほど嫌っているからだろう。
そして、あたしがその言葉でどういう行動を取るか、解っていたからだろう。


じっと 手の中に残った鍵を見る。
鍵は、マスターキーとスペアキーがリングに通っただけの キーホルダーすらない簡素なものだった。

マスターキーもスペアキーも一つになっている、




「後はやっておけ」


「後はあんたがどうにかしろ」













なにそれ。



なにそれ
なにそれだってどういうこと しらない なにもきいてない いってない なにそれいらないのこれ これないとへやにはいれないんだよ
これがあればどろぼうだってできちゃうんだよ これであのへやにはいるんだよ あのへやのかぎなんだよ
ひるまくんのへやのかぎだよ

もうつかわない はずの

日本に戻らない彼には必要の無いもの。






「後はやっておけ」 と彼は言った。
5歩もしない距離であたしに言った。


あたしが 立ち上がって 5歩の距離。



だけどあたしは立たなかった。

ただ彼の荷が整っていくのだけを見ていた。
邪魔するなんて出来ない。だって彼は旅立つのだから。
だからただ 見ていた。
じっと 彼が出て行くまで 旅立つまで 見ていた。


「日本を出る」と言った彼に、 あたしは何も言わなかったけれど、言いたいことが無いわけじゃなかった。
言いたいことは あった。
だけど彼は旅立つから、 あたしが何を言ったって 旅立つから。


ついていく気も無いのに、「置いていかないで」なんて言えない。


そして彼は旅立った。 5歩もしない処から。




もう彼には5歩じゃ届かない。
どれだけ歩いたって辿り着けないところへ行ってしまった。

裸の鍵だけを残して。




「なに それ」


慰めの つもりだろうか。
手の中の鍵を見つめる。

日本に戻らない彼には 必要の無いもの。

手の中の鍵を見つめる。





日は 彼の居ないのを確かめるように徐々に姿を現した。
管理人室の前の廊下は もう明るい。
目の前の扉は、シンとして開く気配も無い。

その場に呆然と立ち尽くすあたしとは別に、周囲を観察するあたしが居た。

だけど呆然とするあたしにはどうでもいい二面性だった。


手の中の鍵を見つめる。


慰めのつもりだろうか。




慰めなんかいらない。

こんなものが欲しかったんじゃない。












あたしが欲しかったのは、

あたしが欲しいのは、 ただ、





ただ、













その先は 言えない。

だからあたしは鍵を握り締めたままそこを動けずにいる。 ずっと。













***
アメリカへ行く蛭魔さんと見送るまもりちゃんの話。
蛭魔さんは約束なんてしない人だろうなぁ、とカナタもまもりちゃんも思っていたけど、見えない束縛はする人でした。
だけどまもりちゃんは、こんな鍵だけ預けられたって、ちっとも嬉しくない。
だってその部屋を開けられても、そこには蛭魔さんが居ないのだから。

(2005/06/11)